光と嘘

ひかりの存在それは波と粒の因果をもち人が立ちはだかり情緒が光を見出す。光は人が捉える。局所的で一過的で包括的なものだ。人が制御、支配しようとしたとき理性、知性とか科学とか情緒の下位の概念が生じる。光の性質の粒子挙動を数学を使って思うままに制御し量子コンピュータをつくる。波動部分は使えない。そして人の一側面を支配しようとする。不気味だ。光を支配しようとすると、光は分解される。幸せの条件の不幸を作り出す装置の1つだ。情緒はその諸側面をとらえている。情緒は因果共存の諸相をとらえる。見え透いた嘘が見透かされるのはこのためだ。科学が人に幸福を与えると考えるのは幻想だろう。不便が便利になって、情緒が便利と不便をとらえ、以前の不便さから解放された解放感をとらえているからだろう。いつまで続くの? いつまでも! でも、いつまで? 情緒が訴えている。その声が聞こえるだろうか。この世がばらばらにされ、支配され、幸福感からはかけ離れ、二度ともとに戻らないんじゃないかと。科学は不気味さを伴う。

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